先日の文学フリマで頒布した『5M Vol.3』ですが、冬コミで「東京大学SF研究会」(12月31日「西み-39a」)さんの方で委託頒布させていただくことになりました。よろしくお願いします。

 また、以下のサイトから通信販売が可能となりました。遠方の方はぜひご利用ください。
https://store.u-tee.jp/

今回は委託参加でしたが『5M Vol.3』を多くの方にお買い上げいただきました。ありがとうございました。
今後の予定としては、通信販売と冬コミでの委託頒布を予定しております。詳細が決まりましたらお伝えしますのでよろしくお願いします。

スケジュールが厳しかったために校正漏れは数多いのですが、そのうち重要な誤記をいくつか訂正いたします。

p.18 十文字青クロスレビュー タイトル 誤『ぷりるん。~特殊相対性幸福論~』 正『ぷりるん。~特殊相対性幸福論序説~』
p.32 十文字青における声の諸相 引用元 誤『薔薇のマリア II SINBREAKER BAZEPAIN』 正『薔薇のマリア VII SINBREAKER BAZEPAIN』
p.76 タイトル 誤「オカルトに騙されないためのオカルト入門 第2回」 正「オカルトに騙されないためのオカルト入門 第3回」

明日の文学フリマですが、「ぼっちーず」さん(ブース:R-5)の他に「新月お茶の会」さん(ブース:J-8)の方でも委託していただけることになりました。「新月お茶の会」さんの方では会誌『月猫通り2126号』(特集:ガンガンJOKER、特別企画「本屋大賞作品総レビュー」)を頒布していますので、合わせてご覧いただければと思います。

※本稿は『5M vol.02』に掲載されたものです。『5M Vol.3』に掲載される「対談・ライトノベルはライトノベルの夢を見るか?」は本論がきっかけとなって行われたものですので、合わせてお読みいただければ幸いです。



ファクトリー文学論、それより俺の妹はこんなに可愛い
藤原斎

1.ラノベを書くを読んで書くラノベ

 小説を書くのではなく、あらかじめ狙ったものとしてライトノベルを書く。2008年に冲方丁の『冲方丁のライトノベルの書き方講座』が出版された。特に興味深いのは、単行本時には『冲方式ストーリー創作塾』というタイトルだったものが、文庫化に際して改訂と改題を加えてストーリーの書き方からライトノベルの書き方へと、読者を絞るような変更を加えたということだ。更にその年には、後に『ライトノベル文学論』を著すことになる榎本秋による『ライトノベルを書きたい人の本』や、ライトノベルの書き方を研究しているwebサイトであるライトノベル作法研究所がそのコンテンツを書籍化した『ライトノベル創作教室』が立て続けに出版されるなど、ライトノベル自身の拡大だけに留まらず、ライトノベルを書くということに対する意識が表に出てきたように思える。もちろんそのライトノベルというジャンルないしカテゴリーの自己規定は、当の小説にもいくつか表れるようになった。『ライトノベルの楽しい書き方』や『ばけらの!』などタイトルにライトノベルという単語が出てきているライトノベルが数点ではあるが出版され、更にはシリーズ化もされている。また、『日本語が亡びるとき』の反応として編まれた『ユリイカ』2月号の特集の中で乱れつつもそれを歓待することが重要なのだと説く坂上秋成の文章に、ある意味での日本語の乱れの例として挙げられているケータイ小説とライトノベルの中で引用されるケータイ小説はと言えば、映画化ドラマ化ゲーム化もされ内容は知らずとも一般的にも名前の知れ渡った『赤い糸』であり、ケータイ小説の非読者にもケータイ小説ここにありといった貫禄をこれでもかと見せつけているがしかし、「こうしたライトノベルの文章を見て拒絶反応を示す〈国語〉至上主義者がいるだろうことは想像に難くない」が「オタク的な「感性」を表現するために」は「稚拙に見える〈現地語〉を書き連ねる方が適してい」て「新しい言葉の在り方を模索する思考の痕跡を見出すことが出来る」というその「こうしたライトノベルの文章」というのは、『涼宮ハルヒの憂鬱』や『ゼロの使い魔』『灼眼のシャナ』などの超有名作ではないばかりか、『このライトノベルがすごい!2009』のランキングにも入っていない『ラノベ部』という小説の第一巻から引用されたものである。『赤い糸』に比べれば知名度という点でいささか心もとないこの『ラノベ部』は、しかし引用として正しく成功している。そして、それはタイトルにラノベとあるからだけではないだろう。一巻の自己紹介文で「子供の頃からライトノベルが好きで、ライトノベルを読んで育ち、ライトノベルが書きたくて作家になりました。これからもライトノベルを読み、書き続けます」と、次いで二巻においては「俺がライトノベルだ」とまで言ってのけた平坂読は、極めて意識的にライトノベル作家をしており、『ラノベ部』もまたラノベという自己規定の中でメタとベタとの間をせめぎ合う、まさしく優れたライトノベルであるからだ。
 さて、ではライトノベルとは何か。あるいはライトノベルの定義について。他のあらゆるジャンルの定義と同じく、それを簡単に答えることはできないけれども、たとえば「あなたがライトノベルだと思うものがライトノベルです。ただし他人の賛同を得られるとは限りません」なんて、 辿りついたと思った瞬間に遠く離れて消えてしまう逃げ水のようなものではなく、この喩えで言うならその実体を持つと感じられた水とは何かということ、そう、どうしてあなたはその小説をライトノベルだと思うのか。
『ラノベ部』二巻の中でライトノベルを読み始めたばかりの竹田龍之介は、「ライトノベル、というジャンルが具体的にどういうジャンルなのかさっぱりわからない」けれど、「何が軽いのか、と考え」たとき「もしかするとそれは、『ジャンルの意味』、『カテゴリーの価値』なのかもしれ」ず、つまり「ライトノベルの軽い(ライト)とは、『ライトノベル』というカテゴリー名自体の持つ意味や価値の軽さ――どうでもよさのことなのかもしれない」そして「厳密な定義や伝統や権威に縛られてはいないからこそ、多種多様な物語が自由に共存できているのかもしれない」とライトノベルに対する所感をまとめている。これは先ほどの定義できないとだけ定義されたライトノベルの定義そのままかもしれない。しかし、一巻で部長の浅羽美咲が「あたしもラノベでこんな話あったら怒るし。転校するなら伏線くらい張っておけっての」というところのラノベとは何か。また、一応の主人公である物部文香が「軽小説部」に入部するときに渡された「最初の方のページにカラーのイラストがあって、中のページにもたまにイラストが入っている」小説を「なんかそういうの(太字でお願いします)がラノベ」と部長に言われるときの「そういうの」という漠然とした言い回しは、しかし確かにある種のライトノベルを指し示してはいないだろうか。
 突き詰めればライトノベル的という言葉かも知れない。つまり、この小説はライトノベル的だからライトノベルだということ。これも先の定義のように何も言ってはいないのか。ライトノベルはライトノベル的だ、というこの一文は同語反復的で意味のない言葉なのか。そんなことはない。ライトノベル的ライトノベルは存在する。それがこの原稿の出発点であると同時に、逆にまたそれ以上のことを言うことはできないかもしれない。だから、これから言葉を連ねて書いていくことは、ラノベっぽいラノベのラノベっぽいの中のラノベという部分に関してである。
さあ、それでは、「ラノベのラノベっぽさ」ではなく「ラノベっぽさのラノベ」とは何を意味するのか。

2.ラノベっぽさからっぽさを引いて残った空っぽじゃないラノベ

 さて、「ラノベっぽいラノベ」というのは、「「ラノベ」「っぽい」「ラノベ」」ではなく、「「ラノベっぽい」「ラノベ」」であり、この一文に出てくる二つのラノベは決して同じ意味を持ってはいない。前者は読者ないし発話者のイメージにおけるラノベであり、後者は実際に指示されている書物であるところの、固有名詞に還元することができる(ラノベ群の中の一冊の)ラノベのことであるからだ。そして、後者に出てくるラノベというのが、一般的に定義することが難しい(ラノベor非ラノベという判断に対して一つの特定のルールを持たない)ライトノベルである。
『ラノベ部』で龍之介が考えたライトノベルというのはこのジャンル(あるいはもうジャンルとは呼ばないほうが良いのかもしれない)であるようなライトノベルである。それに対し、美咲が言うラノベというのは確たるイメージとしてのラノベであり「そういうの」として感覚的に伝えることを目論まれた、ラノベっぽさの中のラノベだと考えられるだろう。
 だから、「ラノベっぽい」ラノベがラノベであると意味を取ることができるのは、ラノベがラノベそれ自身で単立しているからではなく、あくまで前者のラノベっぽさによってラノベであることを決定づけられているからだ。しかし同時に「ラノベっぽさ」というイメージが「ラノベっぽさ」によりラノベであると決定された書物群によって作られるのは間違いない。両者はどちらが先ということもなく、相互補完的に切り離すことができないだろう。
 だが、書物は残り言葉は揺らぐ。相互触媒的に反応したラノベとラノベっぽさは、互いに切磋し研ぎ澄まされ、広大なライトノベルという書物群を作る。「ラノベっぽさ」の持つ意味が尖鋭化すると同時に、それを受けてラノベは指示される架空の中心へと向かって加速する。ラノベは書物を残し堆積するが、「ラノベっぽさ」はただただ移ろう意味である。肥沃なライトノベルは決して扁平な平面ではない。流行り廃りの傾斜のなかに、確かに塔が聳え立つ。そしてラノベは駆け登る。残されたラノベは、ともすればラノベっぽくないかもしれない。それは、かつてラノベっぽかったラノベたち。すでに意味は変容した。ラノベっぽさはラノベっぽさを超えて。規定力は強すぎた。登りつめた先端は鋭くて、果たして勝者を串刺しにする。そう、形容詞がすべてを呑み込んだ。
 ならば今、ラノベっぽいラノベとは一体何か。ラノベは本当に「厳密な定義や伝統や権威に縛られてはいない」のか。ラノベは本当に「多種多様な物語が自由に共存できている」のか。否、それは違うといわねばなるまい。ラノベはラノベっぽさに縛られている。たとえラノベっぽさが同時にラノベによって規定されているとはいえ。確かにそれは定義を拒み、掬えば零れ流れるものだったかもしれない。しかし今、ラノベっぽさは意味を変えた。そして変質したラノベっぽさを、ここでは「ファクトリー力」と名付けたい。また、「ファクトリー力」が小説を一方通行に規定してライトノベルを形作ることを「ファクトリー化」と呼ぶことにしよう。

3.ファクトライズド・マゾヒスティック・ファクトリー

 ライトノベルによるライトノベルの縮小再生産は、2008年をもってある種の地平に達したといっていい。別に、書き方本の出現によって読者のライトノベルに対する意識が読むことから書くことへと移行したということでもないし、ラノベのラノベというジャンル内向的な作品の登場により自己のパロディ的消費が完了したというわけでもない。ただそれは、ライトノベルを規定するラノベっぽさが、一つの臨界を迎えファクトリー力と名付けうるものまで暴走発達したということに他ならない。そして、ぼくたちにとっては福音なのだ。縮小という言葉の否定的なイメージはない。読者は読みたいような本を読むことができるのだから。ライトノベルの理想という中心へと向かって半径を狭くしながら旋回し、やがて結晶化していったと考えたほうがいいかもしれない。すべては、よりライトノベルらしいライトノベルへと。
 では、2008年のファクトリー化されたライトベル作品をざっと追いながら「ファクトリー力」という規定力について考えていきたい。
 鴨志田一は『神無き世界の英雄伝』というスペースオペラでデビューしたが三巻を持って別シリーズ『Kaguya』へと移った。そしてその『Kaguya』がファクトリー化された小説であり、使い道のない超能力を持ちながらもそれを隠して平穏に生活している少年が、強靭な能力を持つ素肌にシーツ一枚を巻いただけの美少女と出会い、彼女を巡る騒動に巻き込まれるうちに価値観を変えつつ、少女と協力しながら問題を解決するというそつのない物語である。巻を追うごとに表紙が過激になっていくのも特徴的だ。スペースオペラでデビューしたSF作家にこのような学園異能的ボーイミーツガールものを書かしめる、このような力こそがファクトリー力である。
 次に「あとがきという名の実験場」と名付けられたその実あとがきの中で「モッテモテになりたいのですだからシリアスがいいのです」「私はシリアスが書きたいのです」と告げるが「編集」に「モッテモテの黄金ジャンルはいまやシリアス路線ではなく……コメディだ」と言われ「コメディ以外書く気はありません」と「意見を翻し」た「とある作家」とは、『丸鍋ねこ改造計画(仮)』の作者である七位連一であり、氏は『地を駆ける虹』というファンタジー作品でデビューしそしてそれを三巻続けた後、この様にしてコメディに路線を変更したのだが、まだ二シリーズ目にも関わらず裏表紙のあらすじには「MF文庫J新人賞受賞作家の新境地」と書かれていて、実際に痛々しい作風で一部の好評をさらった前作とは打って変わった明るい作品である。感情を表に出そうとしない美少女丸鍋ねこをなんとかして笑わせようと、「丸鍋ねこ改造計画」を開始するお調子者の主人公春田リクは失敗を繰り返しながらも計画を進め、やがてはある問題を抱え笑うことのできない彼女を自身の底抜けの明るさで救い出すことに成功する。最初に引用したあとがきにおけるやりとりがファクトリー力であり、どろどろのファンタジー作家はファクトリー化されこのようなほのぼの学園ラブコメを書くに至ったわけである。
 普通に暮らしたくて強襲化という武力行使専門の学科を辞め探偵科へと移った主人公の遠山キンジは、空から降ってきた強襲科のエリートにして美少女の神崎・H・アリアに、隠している特殊体質による強大な力を見抜かれ彼女を取り巻く大事件に巻き込まれることになる、というのは『緋弾のアリア』のストーリーであるが、あとがきで「何度も何度も草稿を読んで下さり、そのたびに貴重なコメントをたくさん下さったこと、心より感謝しております」と礼儀正しく編集に謝辞を述べている作者の赤松中学は、『アストロノト』というSFファンタジーでデビューし、三巻をもって今回の新シリーズを開始した。そしてくどいかもしれないが、SFを書いた小説家に平均化されてしまったという印象を受ける学園ものを書くに至らしめたのが、ファクトリー力である。
 と、以上三シリーズは現時点(2009年4月1日)ではそれぞれ三巻まで出ていて今後の展開から目が離せない。が、ファクトリー化された作品の紹介はひとまずここまでにしたい。
 さて、見てきたようにファクトリー化されたライトノベルはそれなりに多くの人にとってラノベっぽいと思えるのではないか。ラノベっぽさの一つの極北がファクトリー力であるからそれは当然であるとはいえ。これによって、逆にある程度はラノベっぽさというものも見えてくるかもしれない。が、ここではそれを詳しく検討することはせずに、この作家に大胆かつアクロバティックな進路変更を強いる外因的な力のことをファクトリー力というのだったと確認するに留めておきたい。
 2009年の現時点においてもっともファクトリー力の影響を受けたといえる作家は水鏡希人だ。『君のための物語』によって第14回電撃小説大賞金賞を受賞したのち、「読者の方の感想に触れた時、「ライトノベル云々」という表現にいささか戸惑い」「それがどんな内容だったかは『企業秘密』ではあ」るものの「改めて担当さんから「ライトノベルとは!?」なるレクチャーを受けた」この小説家は、「前作に触れられて今作をお読みになられた方の中には、かなり雰囲気が違うと感じられることもあるかもしれ」ないという『静野さんとこの蒼緋(ふたご)』を著す。「「ライトノベルとは!?」なるレクチャーを受けた」結果「何が変わったかといえば、あまりありません」そして「自身の作品がライトノベル的かについてこだわりはありません」と書きつつも、このわずか2ページと2行からなるあとがきにおいて、三度も「ライトノベル」という単語を登場させているし、ゆうに1ページ分は己の作品がライトノベル的であるか否かに費やしてしまったこの『静野さんとこの蒼緋(ふたご)』は、「それについては読まれた方にお任せするべきことと思います」という氏の言葉に一読者として甘えさせてもらうならば、極めてライトノベル的と言ってよいだろう。実は隠された能力を持つ主人公が、存在することを知らされていなかった可愛い双子の妹と出会い、彼女の超能力に触れるうちに自分の力に目覚めつつも、学園で起きる事件を解決するというこの物語は、読者にいささかの既視感を覚えさせ、主人公の日常、学園、異界のヒロイン、目覚める力、二人で問題解決などの散りばめられたキーワードは、前述のファクトリー化されたライトノベル群と共通である。
 ファクトリー力とファクトリー化されたライトノベル(ファクトリー化によってライトノベルたり得るライトノベル)を眺めてきた。小説というよりも小説家に働くファクトリー力はこのように物語を画一する規定力であり、異色としてデビューした力のある新人ですらそれを逃れることは出来ない。しかし、それはあくまでデビューした後に本に寄せられる意見などによる方向転換でしかないのだろうか。次章では、新人作家のデビュー作において既にファクトリー化された作品が存在することを見ていこうと思う。

4.自己ファクトリー化と疎外される自己 幻界創造の想像限界

 平坂読の言葉ではないが、ライトノベルを読みライトノベルを書きたい、という欲望は存在するだろう。例えば『ライトノベルを書きたい人の本』ではライトノベルというよりも広義のエンターテイメント小説の書き方が紹介されているけれど、参照される文献は(コラムを担当している西谷史の『当世書生気質』はライトノベルだ、などというものを別とすれば)基本的にはすべて一般にライトノベルとして認識されている(ラノベっぽい)小説であるから、ライトノベルだけを読んでライトノベルを書くことも可能なのであろう。そんな中で、ライトノベルを読み書くようになった作家が書く小説はどんなものだろうか。
 平穏な日常を生きる少年が、異界の住人であるような美少女と出会うことによって、ファンタジック時空に呑まれ、日常と異常を行き来しつつも、自身の隠れた能力に目覚めたりしながら、美少女を助けともに異界が現実を侵食することによって引き起こされた問題を能力バトルで解決しながら学園ラブコメ。
 シナリオの起伏などを無視したかなり大雑把な括りであるが、たとえば異界に独自のファンタジー設定を代入したりするなどの操作で様々な形のライトノベルっぽい話が作れそうなこの骨格を、魅力的なキャラクターやある方向性を持った装飾で彩ることで、この日常と異界との間をシーソーのように揺れ動く主人公を中心とした物語を作ることはできるだろうし、実際いくつかこういった形を持つ作品が存在する。
 第2回小学館ライトノベル大賞ガガガ賞受賞作『僕がなめたいのは、君っ!』はフラワー協会という花を巡る奇抜な設定とタイトルから連想される大胆なヒロインとの触れ合いが特徴的と言えば特徴的で、しかし基本的なストーリーは上の展開をなぞったものでしかない。この作品のようにデビュー作から既にラノベっぽい、特にファクトリー化されたと言ってすらいい小説を書く作家は、ライトノベルを書こうとみずからファクトリー力に規定されてしまっている。外部から加わる力ではなく、自己自身によってファクトリー化することをここでは自己ファクトリー化と呼ぶことにする。オリジナリティがあるとすれば設定にでしかなく、量産される相似形の物語たち。そしてそれは決して悪い意味ではなかった。ぼくたちは読みたい本をつねに供給されるのだから。ライトノベルを読むというのはまさしくファクトリー化された小説を読むということなのだから。
 けれど、工場はいつだって人間を疎外する。自己ファクトリー化は作家にとって悲劇だ。
 水鏡希人が電撃の金賞を受賞した時の銀賞受賞作『under 異界ノスタルジア』は特に新しいところの見られない既存の作品のマイナーチェンジでしかなかったが、その二巻のあとがきにおいて、自身の小説に対して作者である瀬那和章が述べていることは自己ファクトリー化のまさに本質を突いている。「自分が人よりも少しだけおかしいと思ってい」て「時折襲ってくるわけのわからない妄想は、きっとなにかが壊れているから」であり「開き直って、どこか壊れてないと小説なんて書けない、などと嘯いたこともあ」ったけれど、「どうもそうではなかったようです。描いていた妄想は、誰もが考えていて胸に秘めている在り来りな想像だったのです。個性だと思っていたのは、ただの自意識過剰な自惚れだったのです。たくさんのことを指摘され、それに気づきました」というこの告白は、一巻のあとがきでは「楽しくて仕方ありません」と言っていた「空想」が既にファクトリー力によって均一化されていることに気が付かなかったことから生まれた悲劇である。そして「自分が人よりも少しだけ打たれ強い人間だと思ってい」たけれど、「寄せられた厳しい意見や感想に、自分でも驚くほど傷つき」「自分がいかに弱く、いかに純粋であるかに気づき」、「人よりも少しだけ淡白な人間だと思ってい」て「愚痴を零して泣いてばかりいる友人を慰めながら、自分はこんな風には泣けないだろうなと思ってい」たものの、「頂いたお手紙を読んで、なんの抵抗もなく泣きました。会ったことのない誰かの言葉に何度も励まされました。私はこんなにも涙もろく、熱い人間だったのだと知りました」と続くこのあとがきはいささか感傷的に過ぎるだろうが、しかし確かに胸を打つ。ぼくたちの抱いている感情は既製品でしかないのだ。妄想は逸脱しない。特別になりたい、もしかしたら自分は人と違うかもしれないという、心の片隅に仕舞っているだけのささやかな願望もすでにお仕着せ、そんな状況で小説家としてデビューしてしまったら。自由であるはずの想像力が既に外部から成型を受けていることに気が付き、アイデンティティに亀裂を入れながらも再び立ち上がり続編を書いた、瀬那和章は優れた作家であるし、そしてあとがきの最後に氏が書き綴る、「いつか、こんな小説が書きたいと思います」という小説を、ぼくは読んでみたいと思う。三等賞の紫陽花の輝きを、忘れられない思い出を、言葉で、小説として、表現してもらいたい。それはきっと、小説家の務めであるから。
 けれど、ファクトリー力はそれを許しはしないだろう。ライトノベルであろうとする限り、想像力は創造ではなかった。反復である。
 そもそもファクトリー力とは何なのか。なぜ、作家を規定し作家は規定され小説はラノベにラノベはファクトリーなのか。ファクトリー化という均一化、縮小再生産の結晶は何を持って肯定されるのか、そしてそれを仕向けるのは何か。

5.祝福された読者の祝祭

 小説に限らず娯楽はいくらでもあるが、その中でとりあえず小説に限ったとしてもさらにその中でジャンルはいくらでもあり、今はライトノベルが一つのジャンルであるか否かはのちに回収する気もないがひとまず置いておき、たとえばミステリー、ファンタジー、SF、ホラー、恋愛、時代物など小説には多種多様なジャンルがそれぞれ互いに横断し組み込まれつつも確かにあって、また一つのジャンルであるかどうかは分からないライトノベルはその全てを含んでいるということもひとまずは言うことができるだろうが、しかし考えなくてはいけないことは、ミステリーが読みたくてライトノベルを読む、というのは間違ってはいないまでも何かがズレていると少なくとも言わざるを得ないということであり、ライトノベルの中でミステリーを読む、つまりラノベっぽいミステリーではなくミステリーっぽくてラノベっぽい小説を読む場合、やはりライトノベルを読みたくて読んでいるとするべきだろう。ミステリーを読みたくて読んでいるわけではないのだ。ライトノベルがいかなるジャンルを内包しているかは関係ない。ぼくたちがライトノベルを読むのはライトノベルを読みたいからに他ならない。
 それでは読みたいライトノベルとは何か。それはラノベっぽいラノベでしかないのだ。ミステリーでなくラノベを読むと選択した以上、ラノベであることを自らに宿命づけたファクトリー小説をこそぼくたちは読むべきである。確かにそれは面白いのだから。
 そして、読者の希望は反映される。ラノベっぽさは移り変わった。それは書き手にも浸透するだろう。ラノベっぽさを意識して書かなくてはいけなかった小説家がいた。意識せざるラノベっぽさに引き裂かれた小説家がいた。肥大した読者意識は、小説家を規定する。ラノベっぽいラノベを読むぼくたちは、ラノベっぽさを強化する。意味はシフトする。書くという行為は、少なくとも商業ラインに乗っている以上、作者個人のひとところに停滞しない。常に前進、前進を続け、小説家の意図を離れることもあるだろう。書きたいことを書けない、書きたくないことを書く、そういったことがあるかもしれない。けれど小説家が小説家であるためには、小説を書くだけでは足りなかった。読まれなければならない。読まれる小説をこそ書かなくてはいけないのだ。では、ライトノベル作家にとって読まれる小説とは何か。それは、そう、ラノベっぽいラノベ!
 作家はラノベっぽいラノベを書かなくてはいけない。書きたいものを書けないという悩みは、彼が作家であることが前提だ。ラノベっぽいラノベを書きたくないなら、作家にはなれない。まずは書くこと、さもなくば悩むことすら許されまい。
 伏見つかさは言うだろう。「作家を続けていられるのは皆様のおかげです」と。「自分でいうのもなんだが、俺は、ごく平凡な男子高校生である」という無個性で読者の誰とも相反することはないような少年が主人公の『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の、「企画原案」が「担当編集」であり「決して筆者一人の力で書き上げられたものではなく、三人の数十回に亘る密な打ち合わせによって作られたものだということ」とは一体どういうことなのか。散りばめられたオタクホイホイなキーワードや、いやそもそも妹がモデルでありつつオタクであるなど、仮想敵を内側から取り込む万能感や、仮想オタクバッシングを予定調和的に論破するキャラクターたちの織りなす読者肯定的な狙い澄ました物語。ぼくたちのために書かれたといっても過言ではないこの小説はまさに緻密に生産された、計算尽くの用意された設定を小説家が、いや文章家が文章化することでこの小説は完成し、そして同時にファクトリー化は完遂される。そう、読者にとってのユートピア。引きこもって閉じて閉じて、極だ。理想のライトノベルの一形態であるだろう。
 書くことと書かないことの境界に、小説家と読者の板挟み、需要と供給のその狭間に、あるいは本質的な問題があるのかもしれない。ファクトリー小説は、それが本質的に作家の苦悩と切り離せないという点において、まさにファクトリー文学と言えるのだ。
「書いたものを誰かに読んでもらえる、という状況は夢の中にいるようでした」と瀬那和章は言う。
 そして、読まれるからには覚悟を。